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宗家文書の紹介|宗家と幕府

松平信綱の書状まつだいらのぶつなのしょじょう

 寛永20年(1636)、3代将軍徳川家光の世継ぎ(家綱)誕生祝賀を名目として朝鮮通信使が来聘した。本状は同年8月11日の老中松平伊豆守信綱による書状である。松平信綱は幼少の頃より才気あふれ、「知恵伊豆」と称された。わずか9歳で徳川家光に小姓としてそば近く仕え、元和9年(1623)には小姓組番頭、伊豆守(いずのかみ)に任ぜられた。寛永10年老中となり島原の乱の鎮圧や明暦の大火後の江戸復興などにつとめた。

 書状の内容は、まず最初は対馬藩主宗義成の書状(朝鮮通信使が無事三嶋に着いた、今度の朝鮮への送還者には女がいたので箱根で関所改めを行った)への返事である。信綱は女の関所改めの件で荒井(新居)関所の御番衆へ添状を作成して遣わした。朝鮮通信使が京へ着いた際に大仏見物をしたいとのこと、将軍の耳に入れたところ許可を得たので通信使に伝えるように、また京都所司代にも伝えた、ということである。

 ここで注目したいのは、関所改めと、大仏見物である。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本に連れて来られた被虜人ひりょにんを朝鮮に帰国させるのが初期の朝鮮通信使の任務であったが、その中に女性がいた。男性が関所を通行する際には手形はいらなかったが、女性は女手形(女性用の関所通行手形)が必要であった。そのため男装している者がいないか、または大名の妻子が逃亡していないかなどを、改め女という女性が取り調べを行った。このことを女改めという。

 そしてもう一つ注目すべきは、朝鮮通信使自ら大仏殿を見物したいと申し出たことである。ここでいう大仏殿は、京都の方広寺の大仏殿である。豊臣秀吉が奈良の東大寺大仏に匹敵する大仏を建立したが、度重なる地震、雷、火事により現存していない。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、老若男女問わず朝鮮人の鼻や耳をそぎ取って塩漬けにし京都に持ち帰った。秀吉の命によって耳塚施餓鬼みみづかせがきが執行され、供養された。こうした理由から特に享保4年(1719)の通信使は、秀吉の創建した大仏殿を拝することは受け入れがたいことで拒絶したのだが、この書状に見られるように、寛永20年の通信使らは自ら大仏殿を見物することを希望している。

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松平信綱の書状
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翻刻文
猶以豊州対州一所ニ
不被有之付而不及加判候
以上

一筆令啓候
両上様弥御機嫌被成
御座候間可御心易候将又
一昨九日之御状令披見候
朝鮮之信使道中
無事ニ至三嶋到着
御馳走已下残所無之由
得其意候次今度
異国へ返々被遣候者之内
女有之ニ付而於箱根関所
相改候由承届候因茲
荒井御書衆へ添状
相調差遣之候之間
可被相届之候随而信使
京着之時分直ニ大佛
見物仕度之由申之段
示給之趣達 上聞候処ニ
尤ニ被思召候此段信使可被
相伝之候右之段京都へも
可申遣候恐々謹言

松平伊豆守
八月十一日 信綱(花押)
宗対馬守殿

参考文献
  • 仲尾宏著『朝鮮通信使と江戸時代の三都』明石書店、1993年
  • 山本博文著『対馬藩江戸家老』講談社、2002年
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