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対馬宗家文書とは|対馬と宗家

 宗家は鎌倉時代から明治時代まで、対馬などを支配した北部九州の豪族、大名であった。出自は平知盛とももりの後胤説もあるが、大宰府の役人であった惟宗これむね氏が武士化したといわれている。宗家は鎌倉時代に対馬国の地頭代、南北朝末期には対馬国の守護であった。15世紀初頭までは、筑前国宗像郡(福岡県宗像市)に本拠をおき、筑前国の守護代を兼ねていた。応永15年(1408)に対馬国上県郡佐賀(長崎県対馬市)に本拠を移した。

 対馬における宗家の活動は、文永11年(1274)のモンゴル襲来で対馬国地頭代の宗資国すけくにが対馬で戦死したころから明らかになる。そして対馬移住以降、日本と朝鮮の外交や貿易に携わるようになり、嘉吉3年(1443)、宗貞盛さだもりは朝鮮と癸亥約条きがいやくじょう(嘉吉条約)を結び、特権的地位を獲得、16世紀中ごろには島外の朝鮮通交者の権利(図書)も集中し、朝鮮貿易をほぼ独占した。

 天正15年(1587)宗義調(よししげ)は、豊臣秀吉の九州平定によって服属し、天正18年宗義智よしとしは朝鮮通信使来日の功により、従四位下侍従じじゅう・対馬守に任ぜられ、以後その官位が宗家の慣例となる。宗義智は朝鮮出兵回避のため努力したが、開戦となり、その結果日朝貿易は中断する。その後、日朝国交回復に努めて、慶長14年(1609)己酉約条きゆうやくじょうで貿易を再開し、江戸時代を通じて日本と朝鮮における外交の実務と貿易を独占する。宗義成よしなりは寛永12年(1635)、柳川一件に勝訴、また藩政改革を実施し近世大名となった。近世の宗家は外様大名として15代続いた。宗家は鎌倉時代から江戸時代まで、長期間にわたって対馬の島主であり領主であった。

 対馬藩の城下町は対馬国府中、現在の長崎県対馬市厳原におかれ、金石屋形かねいしやかた桟原屋形さじきばるやかたの居城があった。領地は対馬国無高、肥前基肄・養父郡1万石(佐賀県、田代領)、文化14(1817)年に肥前松浦郡(佐賀県)、筑前怡土郡(福岡県)、下野安蘇・都賀(栃木県)の2万石を加増された。対馬国は「無高」とあるように、江戸幕府から表向きは米がとれないという形で認められていた。江戸時代の大名の格式をあらわす際に使われる石高で表すと、宗家は10万石以上格となる。

 また他の藩と同様、江戸に上屋敷などの藩邸、京・大坂に藩邸、蔵屋敷をおいた。そのほか蔵屋敷は博多、壱岐勝本、長崎にもあった。対馬藩独自の施設として日朝外交、貿易の拠点、釜山の倭館があった。

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